「居合道正史(抄)」にある若浦先生の論文を、Mash流に平たく解説してみます。
そこに述べられている内容は、傍系あるいは無想神伝流を学んでおられる方には大変ショックな内容かもしれません。
しかし、居合道正史は受け売りの説や勝手な主張といった類いのものではなく、足で集めたさまざまな資料をもとに構成されています。
(かつて信じた「居合人に悪人無し」との思いへの裏切りへの反動なのか、そこに著者なりの善悪判断に基づく呼称・・「欺面士」とか「偽面士」とか・が付きますが。)
易水館HPでの主張もそうですが、英信流そのもののや全日本居合道連盟分裂などの原因・歴史的経緯に関する一つの研究結果と考えています。
これをもってここで傍系と呼ぶものや神伝流そのものの「存在、学ぶ人、学ぶ事」自体を否定しようとするものではありません。
また、だからと言ってこれまで学んで来た「居合道・武道としての有り様」を変えられるわけではない。
ただ、研究の結果・成果がそのように他を貶むこととなる可能性があるならば、(真偽を問わず)述べるべきではないと言われるかもしれません。
そのような方々の立場に立てば、これらは敢えて無視して頂く事が得策でしょう。
(しかし、どうでもいいということではないでしょう?私は真実が知りたいと思います。)
本稿も不許複製・無断転載禁止です。
英信流初伝の真実
英信流初伝は、
新陰流の大森六郎左衛門に剣術を習った林六太夫が取り入れた、あるいは新陰流に小笠原流礼法を取り入れて編纂されたものであり、それゆえ「大森流」という・・・
というのが通説です。この通説の出典は加茂治作氏の著作「居合道」の記述※1によるものと推察されますが、こちらでは「大森六太夫守政」となっています。
これに対し、若浦先生の調査の結果、真実は
土佐藩三代藩主(忠豊公)の料理人頭 林五左衛門 ※2が「伊勢流礼法」と「長谷川抜刀術」をもとに業を発案し、陰陽道から業の呼称を抜粋したものである。
ということがわかったのです。
これまでの研究は当流の伝書や居合関係の文書・書籍などを調べるに留まる物が多かったのですが、師の調査は、河野先生が集めた居合叢書のみならず、土佐藩や生駒藩などに伝わる様々な古文書から、長谷川英信や大森六郎左衛門、林一族、松吉や山川の実在確認や人となり、過去の出来事などを調査してその事実を考察して来たもの。
「居合人に悪人はいない」と信じていた歴代宗家に対し、居合関連の古文書や書籍が何者かの、何らかの意図・陰謀によって書き換えられていたとするなら・・という仮定の下に、30年にも渡って調査されて来た集大成と言える物です。
様々な資料を見せて頂きました。確かに、直接関係はなくとも同時代の過去帳や記録からわかる事も多いのです。料理人頭という役職は、土佐藩の藩史にその名を残されるほどのお役目です。すなわち調べればすぐに存在証明が可能な役職である事がわかります。
また、土佐藩主山内家家伝の礼法が「伊勢流」である以上、土佐藩の料理人頭が土佐居合に礼法が取り入れるに際し、「伊勢流」ではなく「小笠原流」を用いるはずがありません。※1 「居合道(加茂治作著)」第一章 基礎知識 p19 「第九代目の大森六太夫守政は、土佐藩四代目山内豊昌公の料理人頭であったが、元禄年間、江戸勤番ちゅうに、荒井勢哲清信から英信流を学んだ。のち、新蔭流剣形のうち「鞘の内」という抜刀術五本の形に、長谷川抜刀術と小笠原流礼式の正座を加え、さらに工夫研究の末、大森流を完成した。」 ここでいう「第九代目」が何を意味しているのか読み取れませんが、「大森」を「林」に変えれば以下の名は史実通りです。また同書p21には「九代 林宗政」と誤記されています。「大森六郎左衛門」の名前は傍系十二代山川久蔵の著した「神伝流秘書」に見られる様です。
※2 林五左衛門政良(はやしござえもんまさよし) は 九代宗家 林六太夫守政の父 であり、相当の使い手であったとのこと。忠豊公の命により伊勢流礼法宗家「伊勢兵庫」に弟子入りし、礼法指南免許を受けています。藩主料理人頭とは毒味役兼身辺警護役であり、本HPの「居合の本姿?」で考察してたとおりの事実がここにありました。
因みに、土佐藩の藩史によれば歴代の料理人頭に「大森六郎左衛門」なる人物は存在しないそうです。林五左衛門と林六太夫、二人の「林」を重ねて「大森」とは、捏造とはいえちょっと洒落が効いてます。(一本筋が抜けてますが・・)
十七代大江先生による業の整理と改称
正統系譜十四代の時盗まれ、偽造された伝書を歴代宗家は盲信して来たため、十七代大江正路先生ももちろんこれら事実を知ることはなく、初伝は「大森流」と信じておられました。
当時は業が繁雑で呼称も傍系によりまちまち、各自思い違いのまま勝手に業を変形させ、足さばきも虚勢と奇抜さを売り物としたドタバタしたものも多かったのです。
大江正路先生は初伝の名称に陰陽道呪法の不吉を感じ取ったため業の呼称変更を決断、公家礼法を参考に直伝古伝書から業と呼称の整理整頓をされました。呼称はもともと皇国史観に基づくバリエーションであった様です。「八重垣」にのみその名残がありますね。後に弟子となり、さらに十八、十九代宗家となる穂岐山先生、福井先生とともに初伝における業の選抜し呼称を変更、さらに居合太刀打之位に「エイ」の気合いを取り入れました。
・傍系は遂に大江の改革に従わなかったので、いまだにドタバタがその剣風となっているのです。
・神伝流礼法と無雙直伝では礼法が正反対となっているのは、礼法の流派の違いと公家礼法を取り入れているかいないか・・のようです。
・傍系の「陰陽進退(いんようしんたい)」は、正しくは「陽進陰退(ようしんいんたい)」でした。いつどこで読み間違えられたのでしょうか・・。・ 林五左衛門が考案した初伝の業の呼称と大江正路が変更した初伝の業の呼称の関係は以下の通り。
当初の名称
大江による改称
初発刀
→
前身
左刀
→
右身
右刀
→
左身
当刀
→
後身
陽進陰退
→
八重垣
流刀
→
請流(受流)
順刀
→
介錯
逆刀
→
附込
勢中刀
→
月影
虎乱刀
→
追風
抜打
→
抜打
「介錯」は「解釈」の違い?
英信流の「介錯」は切腹者に対する憐憫の気持ちを持って為す物であり、決して敵対するものではない・・というのは正統でも傍系でも共通です。しかし、我が師の主張であり、MashもHPで再三述べていますが、切腹者の首を切るのに、斜めに切りおろす傍系はどうしても罪人の首切りにしか見えない。
山川久蔵にどうもその根源がありそうです。「介錯」とは、伊勢流に伝わる武士の切腹における作法と介錯人の作法であり、介錯人は敵対する存在ではありません。介錯する側とされる側の儀式であり、それゆえに「順刀」と呼ぶのです。
傍系の「介錯」が罪人の首切りの様な構えなのは、山川自身の介錯への理解がもともと歪んでいた事によることが、山川自身による介錯について記述「介錯口伝」を読めばなるほどと納得出来ます。ざっくり現代語訳をしてみると、
「切腹をする人の首をきるのは死人を切るのと同じであり、武士が申し付けられるような役割ではない!」
「放し討ちであれば、作法など気にする事はなく、もし仕損じたとしても弁解が可能で責任逃れできるから、もし介錯を命じられたらそうしたほうがいい。」
と書き残しています。申し訳ないのですが、これは凡そ家格・格式のある武士の考え方ではありません。
たぶん彼は介錯を罪人に関する事と勘違いしていた。というより、本当の「介錯」を申し付けられる様な身分、腕前ではなかったのです。
史実から言えば、土佐藩の武士階級には上士・中士※3・下士の厳格な区分が存在し、切腹は上士にのみ許されていた「特権」でした。そして中士以下の身分の場合切腹は許されず、死罪であれば打ち首(斬首)だったのです。
だからこそ、幕末の動乱期、切腹を申し付けられた土佐勤皇党の中士、下士達は、上士と同じ扱いであることをある意味「喜んで」承ったのだと言います。
「衣食足りて礼節を知る」や「貧すれば鈍する」のことわざにある様に、年俸たかだか十石(年収50万円そこそこ)※4の貧乏侍に、武士道や武士礼法を理解せよと言っても、それはまあ無理であったということでしょうね。ただし、山川も松吉も身分は「上士」でした。さすがに「下士」の身分で英信流を学べる筈もないですからね。
豪邸を構えている下士(郷士)もいれば、食うや食わずの「上士」もいたということでしょう。
※3 「中士」という階級の存在についてはMash自身しっかり確認出来ていませんが、某国立大教授のHPで、板垣退助の書生で「民権自由論」などの著書がある植木枝盛(うえきえもり)が土佐藩中士であった紹介されています。白札(上士待遇の郷士・下士)の事をそのように呼んだのかもしれません。
※4 年俸十石とは、現在の単位で米1,500Kg(1000升)に相当します。1kgをおおよそ300円とすると、十石は 300×1,500=450,000(円)となる計算です。
無雙直伝英信流のみの宗家ではない?!
二十代宗家・河野百錬は十九代福井宗家から以下の五流派の宗家を引き継いでいます。
『無雙直伝英信流』
『林崎無想流』
『林崎神伝重信流』
『林崎神伝流』
『林崎無雙神伝重信流』
正統正伝無雙直伝英信流宗家の紹統とは、すなわちこの五流派すべてを引き継ぐという事なのです。
居合の始祖 林崎甚助源重信 の編み出した居合兵法はさまざまな流派・系譜がありますが、現流派名「英信流」の長谷川英信が七代目であるということからもわかる様に、当流派は林崎甚助そのひとを初代宗家とするまさしく「直系」であり「直伝」という事になります。
「神伝」の神とはまさしく林崎明神であり、神の託宣により伝えられたから神伝なのです。
中山博道先生が、一体どちらの神様から伝えられたのかわかりませんが、彼を初代とする流派が「神伝流」を名乗っているのはやはり正統正伝に対する冒涜ではないか・・ということになるのでしょうね。