第1章 居合とは

第5節 術と道について


剣道と居合術・・進化と守旧の綾模様

あくまでMashの個人的見解です。
言葉の定義から言えば、

居合術には剣術にない「鞘の内」という業があり、これを除けば剣術の一形態である。
術とは技術の事であり、道とは術の習得のための修練の道の事である。

 それだけのことになります。

 居合と剣道は「車の両輪」と言われる事もある反面、基本的に仲が悪い。と、思います。うん、非常に悪い。
 これらを論じる文章を目にするにつけ、目を背けたくなるような議論がなんと多いことか。
 我が師のHPにしても過激な記述がありますし、剣道系の方のHPも、師が「傍系」と切り捨てるHPも然り。
 あげくの果ては、言葉や用語の使い方がおかしいとか「そもそも」だとか、なんだか悲しい気持ちになります。

 何故こうなっているのでしょうか・・・バッサリ切り捨てる様な物言いで恐縮。
 ずばり「生きて行く(=金儲け)」方法が絡まっていることが根本にあります。

 剣術や居合術が本当の意味で活き活きとしていた時代、「術」とは自身が生き残る為、あるいは主君に仕える事に役立つ為、つまり生きていく為に必要な方法でした。あくまで「剣で戦う技術」の事であり、そのために体を鍛え、心を鍛えました。目的を達成するためならば何々流にこだわったり、段位にこだわったりはしなかったでしょう。「健やかな心と体」は剣を使う方法を会得するために必要なものであって、それ自体は目的ではないのです。

 居合にはここでご紹介している「無雙直伝英信流」のほかにも「無外流」や「水鴎流」、「伯耆流」・・・といった数多な流れがあります。
 どの流派が強く、どの流派が弱い・・・などという事は誰も言いませんが、(宮本武蔵はそういうところで明け透けな性格だった様で、流派名は出していなくともそれに近い様な事を「五輪の書」で書いています。)全日本居合道連盟や大日本〜、日本〜などといった団体は、そう言った議論をしないまま日本全国にある各流派を束ね、団体としての「段位」、「称号」制度を制定しました。なぜか?・・・そこに利権があるからです。

 折角練習して強くなったり業を身につけて行く中で、「自分は今どのくらいの到達度なのだろう?」という疑問は誰もが持つでしょう。絶対的な位置だけではなく、他者と比べた相対的な位置も気になるのが人情というもの。生き抜いて行くために身につけるものではない以上、精神的な価値と社会的な価値が必要なのです。
 昔であれば切り紙や免許皆伝といった「流派におけるランク」があったり、「他流試合」で打ち負かしたりしたものですが、より大きな絶対的な権威が「君は彼より上!」と認めてくれる方が楽だし安心ですわな・・。
 管理人としては、これら団体が金を取る事を否定するものではありません。生活しなきゃいけないですからね・・段位制度だって否定はしません。高段位になれるよう頑張ります!

 我が師は平井阿字斎先生の側近(鞄持ち)でした。「分裂したらさらなる分裂を招き、弱くなる」といったことを仰った事もあるそうですが、結局大日本居合道連盟は全日本居合道連盟から分裂しました。段位や称号についても各々が授ける形となりました。今は更に分裂が進んでいます。
 私が「全日本居合道連盟の5段と大日本居合道連盟の4段、日本居合柔術連盟の3段は同じ強さです!
 ・・・・などと阿呆な戯言を言い放っても、そうではないと検証する術すらない。
 そういう状態なのです。各々の連盟もそんなことは気にすらしないでしょう。金儲けなんだから・・。
 剣道だって同じ様なものでしょう?

剣道・・剣の理法(技術)を自得するために歩む道

 「道」とはなんなのでしょうか。全剣連のHPでは、『武士が剣を使った戦いを通じ、剣の理法を自得するために歩む道』と述べておられます。すなわち、「道」とは方法(剣の理法)を学ぶための「カリキュラム」ということになるのでしょう。
 さらに同HPでは、『剣の理法の奥にある武士の精神を学ぶことが重要』であり、これが『剣道の目的が「人間形成の道」と言われている理由』とされています。
 ・・・うーん、言わんとすることは解るのですが、意味が今イチ曖昧で「ピン」と来ません。

 「剣の理法の奥にある」???「武士の精神」って何なのでしょうか。
 新渡戸稲造の「武士道」や宮本武蔵の「五輪書」で語られているようなことを指しているのでしょうか。
 仁・義・礼・智・信が剣の理法の奥にあるとか。まさか、「死ぬこと」と覚えたりっ!なんてことはないでしょう?

 「剣術」とは「剣を用いる方法」のこと、まさに「剣で戦うための理法(技術)」のことでしょう。「自得するために歩む道」とは、やはり修練ということでしょう。
 あえて誤解を避けず定義させてもらえるなら、「剣道」とは「剣術の修練」ということになりましょうかね。

 明治維新後の日本に既に武士道はありませんでした。日本刀はすでに軍属のもつ単なる権威と力の象徴としてあっただけ。
さらにあの大きな戦争が終わり、連合国による武装解除を受け丸裸になった我が国に「真剣(日本刀)」は本当に不要なものとなりました。
 「健やかな心と体を育む体育」の一カテゴリーとして現代の剣道が息を吹き返すために、あのGHQを納得させる大変な努力がなされたといいます。
 そこまでして剣道を復活させた動機は一体何なのでしょうか。
 どんなスポーツでも一緒ですが、学ぶものと教えるものが考えている事はおそらく違うのです。
オリンピックだって経済に対するインパクトや国威発揚が何よりの目的。『参加する事に意義がある』・・なんて寝言もたいがいにせよといいたい!
 国からの助成金は大事。だから安全なスポーツでなければならず、国威発揚に繋がるものでなければならないのです。
 また、段位・称号を価値あるものとするために、それを授ける権威が必要なのです。

 もっと厳しめの事を言えば、剣術では「鹿島の剣」から「北辰一刀流」や一時脚光を浴びた「天然理心流」という流派に至るまで、流祖や宗家がおり、その術を守るための流れが現在もあります。剣道にはそういった歴史はなく、当然宗家などもおりません。全 日本剣道連盟を宗家と見なす意見もありますが、スポーツに宗家という考えそのものが意味を持ちません。

 剣道をやっていたとき、居合を学びたいと相談した事がありました。

 学校に教えに来て下さっていた七段の先生は、「弱くなるからやらんでいい!」とアドバイスをくれました。

 一方、加茂先生の著作「居合道」では、剣道家に居合を学ぶことを勧めています。刃筋が正しくなり、刀の振り方が正しくなるからと云う事です。

 どちらも間違いではありません。

 スポーツとしての剣道を究めたい人にとっては前者が正しい。

 剣道を剣術として究めたいと思うのであれば、後者がきっと正しい。でもそれなら、最初から「剣術」を学ぶ事をお勧めしますね。

 正しい刀の使い方を学んでも、剣道の試合に勝てるようになるわけではありませんから。

 でももし、刀で斬りあうようなことがあるとするなら、剣道を学んでいても生き残る事は難しいでしょうね。


 「武術に卑怯なし」という言葉にある通り、敵に勝つことが武術の目的であり、茶道や華道と同じくその精神性を重んじるものが武道となるのでしょう。同じルールのもと、ルールを破ってなりふり構わず勝ちに行く事を「スポーツマンシップに悖る=卑怯」とされるのがスポーツです。

 剣道で有効とされる打突部位(面、胴、突き、胴突き、小手など)は、実戦の場合には斬ることのできない場所、すなわち防具で防御されている場所であることに注意して下さい。

これに対し、剣術で主に狙う部分は、原則として防御し難い、弱い部分に集中します。たとえば、こめかみや顔、首の付け根、脇の舌、帯の上など。いずれも具足の隙間や防具が付けられないところです。正中に斬り下す(すなわち上段から真っ直ぐ)のは、原則としてとどめの一撃です。
そこには「命のやり取り」と「勝ち負け、優劣を決める」という決定的な違いがあります。

 スポーツであり武道である剣道が、居合術や剣術をその下流に見立てること自体、無理があるし意味が無い。これは議論しても拉致があかないと思うのです。
 居合術や剣術ではそう言う精神性を無視しても構わないと言いたい訳ではありません。技は技、礼は礼。各流派に定められている礼式や術を学ぶにあたっての精神鍛錬の必要性は、各流派にゆだねれば良いではありませんか。べつに統一しなければならないという事も無いでしょう?

剣道に対する疑問

 剣道はスポーツですから進化しても構いませんし、進化する必要があります。そこでかねてからずっと不思議だなあと思っているのは、なぜ道具(竹刀、防具)がより安全なものに進化して行かないか、ということです。

 袋竹刀を起源とする竹刀は、作るのに手間のあまりかからない簡便なものであるが故に、先革を突き通したりささくれ立った竹片が面金を抜けて顔面や首などに大きな傷害を残す事故が後を絶たないといいます。(師の知合いに、片目を失った人が居ます。)
 水分を取らせず炎天下で長時間の稽古で熱中症で倒れるなんてのも結構聞かれました。
 面金を工夫し、竹刀を工夫し、道着を工夫するだけでもっと事故は減らせるはず。某公式HPに「剣道の事故発生率が他のスポーツより低い」ことが述べられていますが、道具(の手入れ不足)が原因で事故が頻繁に発生するスポーツはあまり多くないと思います。
 なぜあの形にこだわるのでしょうか。竹刀は日本刀とは全く異なるものであり、竹刀の取扱や打突は真剣の刀操とは全く異なります。
 剣道の防具も、実戦に用いられた甲冑ではありません。(赤胴鈴之助や白虎隊?)
 いずれも、刃引きした真剣や木刀で打ち合うため怪我が絶えず門下生の出入りが激しかった剣術の練習において、激しく打ち合う練習が出来、怪我や痛みを防ぎ抑えるために考案されたものであり、あくまで剣術の練習の道具以外の何者でもありません。
 「日本刀」は武士の魂ですが、竹刀のことを「武士の魂」と思っていた武士はいないでしょう。(日本刀を敬う練習は出来ますけどね・・)

居合道に対する疑問

 全剣連の制定居合は徐々に追加されています。
 無想神伝流は「昭和の剣聖」中山博道先生が無双直伝英信流から編み出した新しい流派であるとのこと。
 (生前、中山博道先生は自ら無想神伝流を名乗った事はなく、大森流・英信流とよんでいたらしいですけど・・。)
 剣道が剣術の練習であるならば、全剣連が剣術の一形態である居合術をその練習の対象にするのはもちろん正しいことです。
 それを「居合道」と呼ぶのであれば、「居合術の修練」であり、これも正しい。
 しかし、方法論としての「居合道」が古流として厳然と存在する居合術に取って代わろうとするのであれば、それは本末転倒でしょう。練習の目的は、居合術を修める事のはずです。
 刀を用いて命のやり取りをする戦いが現実のものではない現代にあって、「時代に合わせて」変遷・変化させる必要がどこにあるというのでしょうか?・・・新しい刀の振り方?あたらしい人の斬り方?・・・なにそれ?って感じです。

 古流として残るこれら「術」には護るべき「伝統」があります。
 これらを学ぶ事は、現実の戦いでの有利さを求めるべくもなく、学ぶ事から間接的に身に付くもの、心や精神性を重んじるものでしょう。
 遥か過去の歴史に思いを馳せ、命のやり取りをせざるを得なかった時代の生き様を思い、現代に生きるための強さを養ったりするものだと思うのです。「なぜこうなのか」を突き詰める事は、「術」を「より良く変える」事を目的とするものではありません。それは意味がないことだから。げっ、HPのタイトルが居合道だ・・!

 あと一つ余計な事を付け加えるなら、居合は型ではなく業であり、刀を振るのではなく「抜き」、「斬る」動きが大切です。「エイ!」「ヤー!」とか、ドスン、ドシンとかいわせる体操にはしないで欲しいと、しみじみ思います。

 さまざまな伝統芸能において、連綿と伝わる「根本」は大切にされています。
 刀を用いる術と異なり、現代に於いても常に衆目にさらされる事を宿命とする舞台芸術ですら、それは同じです。
 歌舞伎の中村勘三郎さんは、舞台に現代の感覚をどんどん取り入れ、多くの観客から絶大な支持を受けています。
 が、それは「歌舞伎」という芸能のもつ本来の有り様であり、「歌舞伎」としての根本が揺らぐ事は決してありません。
 彼は他の誰よりも強く忠実に護っているのだと思います。
 そしてかの世界では護るべきものを本当の意味で正しく護る使命のため、世襲や襲名がなされて来たのでしょう。
 (偉そうに語ってすいません。個人的にも勘三郎さんの大ファンなのです。)
 剣道の求めるものが剣術・居合術の体得と、そこに根ざしている「武士道」を身につける事ならば、時代に流されず護らねばならないものと、時代に合わせて進化させねばならないものをしっかりと峻別して行かねばならないのではないかと・・・
 そのように考える次第です。屁理屈こねくり回してんじゃねーヨッと・・・失礼しましたーっ。


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最終更新日 : 2007年1月28日