前ページまでとは趣向を変え、業前から居合を考察してみます。
日本刀剣愛好保存会の町井さんとの往復書簡がきっかけになりました。
居合については、かねてから以下の疑問を持っていました。
- 「我が身を護る」というのなら、なぜもっと広く学ばれなかったのか。
- 「大刀を差したまま正座をする」のはなぜか。
居合は通常の剣術と異なり、道場を開いて広く門弟を集める事はあまり無かった様です。
また、居合の使い手は剣術や杖術の使い手が重ねて学んでいる事が多いのも不思議です。
たったこれだけのことから仮説を置くのは乱暴かも知れませんが、そこをあえて、
『居合は特殊な術として扱われ、限られた人にのみ伝えられていた。』
という仮説を立ててみましょう。
初伝「正座の部」:本当の姿を隠す「隠れ蓑」
江戸時代の中期、当流九代林六太夫守政のころ編成されたとされています。
「大森流」と呼ぶ流派もあるようですが、正統正伝ではそのようには呼びません。
参照:居合道真諦嘆異録「14.当流の正統と傍系のこと」
師曰く、初伝「正座の部」は、居合初心者の為の導入部であると同時に中伝以降を隠す「隠れ蓑」であるとのことです。
舞いの様な業前は優雅ですが、とても「戦闘術」と呼べるものではありません。
初伝には刀法の基本が含まれており、居合を学ぶものはまず、そして必ず修めておくべきとされています。
お昼休みの太極拳の様に、ゆっくりと確実に行うのが大切。どこまで行っても常に立ち戻るべきであり、修練が進んでこその新たな発見があります。ただ型を押さえていれば良いというものではない。
「十文字の居合」と呼ばれるそうです。横一文字に抜き付け、さらに上段から斬り下すという「パターン」は初伝の特徴ですから、「外部」からそのように呼ばれる事もわかります。居合の使い手から命を守るには、最初の一撃である横一文字の抜き付けを止められれば良い・・?。そう思わせるのが狙いなのかも知れません。しかし初伝最後十一本目の「抜き討ち」を見て、いきなり上段から一刀両断される事もあるという事実に混乱させられた事でしょう。
十七代宗家大江正路先生は、中山博道氏の入門を断った上、「では見せてくれ」との申し出に初伝すら見せなかったそうです。何故入門を断ったのかはともかく、当流派は永く中伝以降の業を部外者に見せなかったのです。(初伝すら見せなかったのは?)
七本目「介錯」はともかく、ほとんどの業が敵の害意を察知し機先を制するいわゆる護身の業であり、「居合は護身」という観念は、ここから来ているのでしょう。「居合とは・・」で始まる数々の居合古歌に示されるその精神性や心の修練の強調も、ある意味で初伝の様に本当の姿を隠す「隠れ蓑」ではなかったのかと思えてきます。
鯉口を切りつつ敵を早足で追跡、追いつくと同時に抜き付け、さらに切り下しを浴びせる十本目「追風」は、どう考えても護身の範囲を越えています。
中伝「立膝の部」:殿上、近衆攻撃への応変?
立膝は具足をつけた状態での坐法で「武者坐」とも呼ばれ、自由な坐居にくらべ不意の攻撃に応じやすい坐法とされます。
中伝そのものは初伝より古く、おそらく戦国時代の終わり頃から業として成立していたようです。
初伝が「ゆっくり確実に」を大切にしていたのに、中伝以降は「素早く確実に」が求められるため、初伝をしっかり修めていなければ危険です。
ここからは確かに戦闘術となります、居合の本質すなわち「刀を鞘に納めた状態からの戦闘」とはなんなのか・・を考えねばなりません。
一本目「横雲(よこぐも)」、二本目「虎一足(とらいっそく)」、三本目「稲妻(いなづま)」、七本目「鱗返(うろこがえし)」、八本目「浪返(なみかえし)」はなんとか護身とも解釈できそうですが、四本目「浮雲(うきぐも)」では妙な状況になります。五本目「颪」、六本目「岩波」でもそうですが、側にいる人間が突然自身の刀の柄を、九本目「瀧落」では、後ろから鞘(鐺)をつかみかかってくるのです。
なぜ、側に座っていた人間(おそらくは同士?)が突然襲いかかってくるのでしょうか。しかも斬りつけるでもなし、まるでこちらの攻撃の手を封じようとしているかの様です。
これらの業は、事が起こるその前までは一緒に座っていた仲間、あるいは同士の突然の「動き」に応じ、電光石火の刀操でこれを切り抜ける様に思えます。四本目「浮雲(うきぐも)」でもう少し。
右隣のそのまた隣にいる人が相手です。隣の人をどのように処するかで、派によって諸説あるようです。
さっさと退いてくれるなんて想定は偶然に頼り過ぎなので、易水館では退かないことを想定し、柄を使って頭を前(自分にとっては左側)に押し出しつつ左足の返しで尻を持ち上げる様にします。これで「サギ足」になる。右隣のひとはこれで前のめりに倒れるので、そこで目標の人物に片手左袈裟を加え、その後峰に左手を当てて首を掻き切る・・のはちょっと過剰の様な・・・。さらの倒れた胴にとどめの一撃を加えるのですが、相手は刀も抜いていません。怒られるかも知れませんが、ある意味「卑怯」にさえ思えます。
徳川の治世になって、武術・剣術は生き残り出世していくための必須の術(すべ)から「武士のたしなみ」へと変化して行きました。大名などの高級武士たちには物々しい身辺警護は無粋なものと見なされる様になっていったのかもしれません。なにしろ幕府に無断で城の修理をしただけでお家断絶や国替えを申し付けられた時代です。諸藩にとって、文武に励むだけでリスクを負う時代となっていました。
奥伝(居業):敵中への呼び出し?
中伝立膝の延長にありますが、業のスピードは更に上がり、納刀も鍔元まで一気に納めます。つねに次の状況に備えるためです。
一本目「霞(かすみ)」は、立膝からの立ち上がりと抜き付けをほぼ同時に行うとともに、肩を入れ腰のきれを最大限に使って一撃必殺を狙います。それでも仕損じ、後に逃げようとする敵に対し、脇をしめ膝を突きつつ大きく前に出て追いつめながら今度は脛を右から左に大きく払います。
こうなるともうとても護身等と言っていられません。二本目「脛囲(すねがこい)」は中伝「虎一足」のバリエーションながら、斬り下しはその場で(半歩出ず)行います。三本目「戸脇(とわき)」、四本目「戸詰(とづめ)」に至っては、ふすまを開くと同時に左右前、もしくは右前と左後の敵を一気に片付けます。敵中への呼び出しを受け、タイミングを見て周囲の敵を片付ける業の様に思えます。
武士道逆説
戦乱こそ無くなったとはいえ、そこは人の世界、謀略や暗殺などはやはりあったのではないでしょうか。武士の帯刀は相変わらず許されていました。「お庭番」(いわゆる忍者?)が座敷の前庭に潜んで同類の侵入を防いでいたと同時に、座敷に上がり高級武士に謁見出来る立場のものがいきなり刀を抜く事態に備え、謁見の間近くの「武者溜」に侍り、主家の一大事に備えていた武術の使い手集団がいたというのは想像に難くありません。そのようなもの達のなかでさえ、その腕を買われ裏切るものがいたのかもしれません。「武士道とは」をとやかく言うその裏には、武士道に悖る輩が絶えなかったからかもしれないというのはうがち過ぎでしょうか。
無双直伝英信流の宗家たちの武士としての身分はそれほど高いものではありませんでした。収入という点では決して恵まれてはいなかったはず。そのかれらが、土佐藩にあって「居合術」を表芸とせず、つまり道場を開いて門弟を集めて収入を得るという事もなく、口伝・秘伝を旨としてその術法を伝えてきたのです。これはどう考えても不自然です。
この流派は学んでいること自体が親類縁者にさえ秘匿されていたという説があります。
他の武術の使い手が選ばれて伝えられた(事実、七代長谷川英信は宝蔵院流槍術の使い手でした)という説もあります。
土佐藩御留流(おとめりゅう)とされたこの流派は、実は藩主の命によって厳に秘匿されていた「秘剣・秘術」であったとすると、これらの事実も何となく辻褄があってきます。
なんともファンタジックなのですが、居合の現状を考えると、まるであり得ない事ではないと思えてきます。
(このページはまだまだ書き続ける予定です。)